2025年03月18日

「はじめに」


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【注意
このブログは一冊の本になるように書かれているので「はじめに」から順番に読んでください

私は「村田基の逆転日記」という時事ブログもやっているので参考にしてください


「はじめに」
私は若いころ、「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」「善と悪の関係はどうなっているのだろう」ということをねばり強く考えていた。そうすると、あるとき答えがひらめいた。
その瞬間のことは今も鮮明に覚えている。「アウレカ!」と叫んで走り出しはしなかったが、まさにそういう心境だった。そのひらめきによって善と悪の定義ができた。わたしは自分の思いつきが正しいことを確信した。

これまで善と悪の定義はなかった。善と悪とはなにか、道徳とはなにかを探求するのがメタ倫理学といわれる分野だが、メタ倫理学はなんの成果も出していない。そのため倫理学の本はどれも難解で、いくらがんばって読んでもすっきりと理解できるということがない。それはいわば天動説的倫理学だったからである。私が思いついたのは地動説的倫理学というわけである。
天動説的倫理学のもとでは、夫婦喧嘩は互いに「お前(あなた)が悪い」と言い合うことで行われ、この議論は絶対に決着しない。戦争は互いに「敵国は悪だ。自国は正義だ」という認識のもとで行われ、敵国に容赦がない。つまり道徳がかえって争いを激化させている。「道徳観のコペルニクス的転回」によって地動説的倫理学が広く世の中に受け入れられれば、無用の争いはほとんどなくなるだろう。


ここで、本書の構成について説明しておきたい。
「道徳観のコペルニクス的転回」そのものはきわめて単純なものである。しかし、いきなり説明すると、中世の人に「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と言ったみたいなことになりそうである。そこで第1章では、私が地動説的倫理学を思いつくまでの過程を書くことにした。この過程は天動説的倫理学との格闘なので、これを読めば天動説的倫理学がいかにだめかということがわかり、地動説的倫理学を受け入れやすくなるだろう。

第2章で「道徳観のコペルニクス的転回」の発想の最初から定義化までの全体を述べた。

第3章の1「ダーウィン説の検証」はひじょうに重要である。
「道徳観のコペルニクス的転回」は、人類の祖先がいかにして道徳をつくりだしたかという仮説に基づいている。チャールズ・ダーウィンも『種の起源』の12年後に著した『人間の由来』において道徳起源の仮説を述べた。しかし、ダーウィンは天動説的倫理学に立脚していたので、間違った。『人間の由来』以降、社会ダーウィン主義と優生思想が猛威をふるって、社会に混乱と悲劇をもたらした。社会ダーウィン主義と優生思想は、進化論と道徳の間違った結合体である。
ダーウィンの道徳起源説と私の道徳起源説は、表と裏のようにちょうど正反対である。読者にどちらが正しいかを判定していただきたい。
これは進化倫理学といわれる分野の問題になる。これまでの進化倫理学はダーウィンの道徳起源説に影響されていた。正しい進化倫理学ができると、自然科学と人文・社会科学が正しく結合されることになるだろう。

第3章の2「文化人類学」は、道徳誕生以前の社会ないしまだ道徳が十分に機能していない社会について書いた。これは私の道徳起源説とダーウィンの道徳起源説のどちらが正しいかを判断する材料になる。

そのあとは教育学、心理学、経済学、政治学などについて書いた。倫理学が変わる以上、それらの学問も変わらねばならないからである。私にはそんな幅広い分野について書く力がないので、いい加減なことも書くだろうが、大目に見ていただきたい。コペルニクスも惑星の楕円軌道を円軌道と見なすという間違いを犯していた。

最終章は人類史の本を比較して論じた。
ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』は、ダイアモンドのニューギニア人の友人が言った「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのだろう」という疑問をもとに、文明の発展には交通が大きく関わっていることなどを論じている。しかし、それだけではニューギニア人の友人の疑問に答えたことにならないだろう。友人は「なぜヨーロッパ人は奴隷制や植民地支配などの残忍で非人間的な行為ができたのか」という告発もしたのではないだろうか。しかし、ダイアモンドはこの問題はスルーしている。
ヨーロッパ人が生来残忍で非人間的だということはありえない。ということは、文明が進むとともに人間は道徳的倫理的に堕落するということだろう。
しかし、別の考え方もある。人間はもともと野蛮で残忍だったが、文明が進むとともに道徳的倫理的に向上してきたというものである。
つまり文明に悪があるのか、人間性に悪があるのかという問題である。この問題はリベラルと保守、左翼と右翼の対立にもつながっている。この対立は社会を分断する深刻なものになっているが、進化論によって解決できる。

地動説的倫理学が一日も早く世の中に受け入れられ、世界の平和と家庭の幸福が実現することを願っている。




muratamotoi at 20:57|PermalinkComments(0)はじめに 

第1章の1「道徳とはなにか」

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人間は動物よりも邪悪?
私は若いころから道徳とはなにかということを考えていた。なぜそんなことを考えるようになったかというと、いくつかのきっかけがあった。

私の生家では、父親が犬好きだったので、私が幼稚園のころから犬を飼っていた。最初に飼ったのはシェパードで、その後コリー二匹、ブルドッグ二匹も飼った。小さかった私は、シェパードの背中にまたがれば馬のように乗れるに違いないと思って何度も試みたが、残念ながらいつもすり抜けられて、うまくいかなかった(この記憶は、私が犬の背中に乗れそうなほど小さいころがあったのだという感慨を喚起してくれる)。シェパードやブルドッグはけっこう人から怖がられる犬種だが、飼っていればなにも怖くない。小さいときに犬と触れ合ったことで、私は犬は信頼に足るものだと思うようになった。
私は会社勤めをするようになると、人間関係にうんざりすることが多かった。そんなときに思い出されるのは、かつての犬とのふれ合いだった。私はその後、猫を飼ったが、猫でも同じことである。犬や猫は無条件で飼い主を信頼してくれるし、こちらが無条件で信頼してもだまされたり裏切られたりすることはない。私は、人間と動物を比べると、人間は動物よりも邪悪なのではないかと思った。
もっとも、人間に飼われて餌をもらっている犬や猫が飼い主を信頼するのは当たり前のことだ。しかし、野生動物についても、コンラート・ローレンツ著『ソロモンの指輪』などを読むと、オオカミなどの動物は同種間で殺し合うことはないし、動物はなわばり争いをしても、ほどほどのところでやめると書かれていた。ところが、人間はなわばり争いで殺し合いをし、限りなくなわばりを広げて帝国を築いたりする。また、哺乳類の親子関係をテレビなどで見ると、子どもは親のそばで自由に遊び回り、親は子どもにぶつかられたり踏みつけられたりしても、決して怒ったりせず子どもを見守っている。人間の子どもは、年中親から、それをしてはいけません、あれをしてはいけませんと言われ、叱られている。中には子どもを虐待して殺す親もいる。私は「人間は動物よりも悪い」という思いを強め、そのことが道徳への疑問につながっていった。

道徳を説教される不快感
私が子どものころは道徳の授業はなかったが、朝礼における校長先生の話はほとんどが道徳の説教だった。私は人生において校長先生の話をいっぱい聞いたが、なにひとつとして覚えていない。いや、ひとつ覚えているのは、「自由の裏には責任がある」という言葉である。これはすべての校長先生から繰り返し聞かされた。「お前たちに自由がないのは責任能力がないからだ」ということを言いたかったのだろう。今にして思えば、一度ぐらい「自由がないから責任もなくていいんですね」と言ってやればよかった。
小学校二、三年生のころ、担任の先生が休んで、代講にきた先生が通常の授業でなくて、いわゆる道徳講話をしてくれたことがあった。その話というのは、人間は一人では生きられない、周りの人のおかげで生きているのだから、周りのみんなに感謝しなさいというものなのだが、それがやけに具体的で、細かいのだった。たとえば、私たちがご飯を食べられるのは、お米をつくってくれるお百姓さんや魚を捕ってくれる漁師さんのおかげ、料理してくれるお母さんやお金を稼いできてくれるお父さんのおかげ、家に住んでいられるのは、建ててくれた大工さんや材木をつくってくれた人のおかげ、こうして勉強していられるのはノートや鉛筆をつくってくれた人のおかげという具合に、二時限の間ずっとそういう話をしているのだった。
私はそれを聞いて、素直に感心したが、自分にはそこまでできないだろうとも思った。そして、その先生は自分でそれを実践して、すべての人に感謝しているのだろうかと疑問に思った。
「人に親切にしなさい」と説く人を見ると、人に説くぐらいだから、その人自身も親切を実践しているのだろうと誰もが思うだろう。しかし、冷静に考えると、「人に親切にしなさいと説く人」と「親切を実践する人」は別である。人に親切にしなさいと説くからといって、その人が親切であるとは限らない。
私はその先生の話を聞いてから、道徳を説く人をうさんくさく思うようになり、さらには道徳をうさんくさく思うようになった。
こうした思いは私だけではないだろう。子どもは誰でも、おとなから年中道徳を説かれてうんざりしているものだ。ところが、自分がおとなになると、そのときの思いを忘れて、子どもに道徳を説くようになる。
子どもはおとなの行動を見て学び、自分がおとなになると同じ行動をする。だからこそ社会の文化は世代を超えて受け継がれる。おとなが子どもに道徳を説く文化もそうして受け継がれてきた。
しかし、私はおとなになっても、子どものころの道徳を説かれるうんざりした思いをいつまでも忘れなかった。そのため道徳とはなにかということをねばり強く考え続けることができたのだ。
これには私の個人的な体験や資質もあっただろうが、私の世代特有の事情もあっただろう。

全共闘世代の特徴
一九六〇年代末から七〇年代初めにかけて「若者の反乱」と呼ばれる世界的なムーブメントが起きた。ベトナム反戦や社会体制の変革という政治的主張があると同時にヒッピーやロックなどの文化的な運動でもあって、社会になにか根本的な変革が起こりそうな予感が満ちた。一九五〇年生まれの私もその真っただ中にいた。
しかし、結局なにも起きなかった。運動は退潮し、高揚した気分は冷め、色あせた日常が復活した。しかし、そのときの高揚した気分は心の深いところに刻印された。そのためなのか、いつまでも若者意識が抜けなかった。「三十歳以上を信じるな」と言っていた人間が、三十歳以上になっても素知らぬ顔で同じ生き方をしているというのがこの世代の特徴である。私も自分がおとなになってからも若者や子どもの視点で物事を見ていたような気がする。

どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう
子どものころから道徳に漠然とした疑問を感じていた私は、道徳とはなにかということを考え、善と悪とはなにかということを考え、やがて「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」という疑問に焦点を絞るようになった。
世の中のほとんどの人は、悪などないほうがよいと思っているだろう。そうすると、みんなで力を合わせて悪をなくすように努めれば、悪のない世界が実現してもよさそうなものだ。悪をまったくなくすことはむりでも、十分に少なくすることはできるのではないか。ところが、悪はなくなるどころか、どんどん増大しているように見える(当時は犯罪が増加傾向だった)。
もし世の中から悪をなくす方法がわかれば、人類の幸福にたいへんな貢献ができる。もし悪をなくすことができないとわかり、ある程度の悪を受け入れなければならないとすれば、それはそれでむだな努力をしなくてもよくなるので、やはり人類に貢献できる。思想哲学上の問題として、これほど重要なことはほかにないだろう。
ところが、思想家、哲学者が「悪をなくす」という課題に取り組んだ形跡は見当たらなかった。これは実に不思議なことだった。あまりにも根本的な問題なので敬遠されているのか、それとも単に盲点に入っているのか、いずれにしても、誰も真剣に考えてこなかったのなら、私でも真剣に考えれば答えを見いだせるかもしれないと思った。
私は決してむずかしい問題に取り組んでいるつもりはなかった。善や悪は単純な概念だから、答えも単純なものに決まっている。一見むずかしそうな幾何の問題が一本の補助線を引くことであざやかに解けるように、ちょっとした発想の転換で解けるに違いないと思っていた。

校則違反をなくす簡単な方法
私の思考の過程を再現してみよう。
悪というのは抽象的な概念なので、悪について考えようとしてもなかなか想像力が働かない。そこで「悪」を「犯罪」に置き換えて、「どうすれば犯罪をなくすことができるか」について考えることにした(悪は道徳に規定され、犯罪は法律に規定されるので、悪と犯罪は別物であるが、法律はある程度道徳を踏まえてつくられるので、それほど違うわけではない)。
犯罪をなくす方法としてまず考えられるのは、法律をゆるやかなものにすることである。
たとえばある学校で、校則のスカート丈の規定が膝上五センチから膝下五センチまでと決まっていて、違反が多くて困っているとする。それなら規定を膝上十センチから膝下十センチまでと変更すれば、違反はへるはずだ。法律も同じことで、自動車の制限速度を、たとえば六十キロ以下から八十キロ以下にすれば、スピード違反はへるはずだ。飲酒運転禁止という法律をなくせば、飲酒運転という犯罪もなくなる。しかし、そんなことをすれば、交通事故が増えるだろう。自動車の速度制限や飲酒運転禁止は交通事故をへらすためにあるからだ。つまり法律はなんらかの必要性があってつくられている。あってもなくてもどうでもいい校則とは違う。法律をゆるくしたり法律の数をへらしたりすることは、実際にはむずかしい。

警察力で犯罪はなくせるか
犯罪をなくすもうひとつの方法は、警察力を強化し、刑罰を重くして、犯罪をきびしく取り締まることである。
これによってある程度犯罪をへらすことは可能だろう。しかし、警察力の強化にはコストがかかるし、刑罰を重くすれば刑務所も増設しなければならない。費用対効果を考えれば、ただきびしくすればいいというものではなく、適正水準というものがある。そして、たぶん今が適正水準に近いはずだ。
しかし、なにか凶悪な犯罪が起こるたびに、厳罰化と取り締まりの強化が叫ばれる。だったら、コスト意識など捨てて、「犯罪なき社会」という理想を実現するために、どこまでも取り締まりの強化を進めていけばどうなるだろうか。
ひとつ言えるのは、ほとんど犯罪がなくなるような強大な警察力のもとでは、一般市民も警察に監視され、自由は制限され、冤罪の恐怖とともに生活しなければならないということだ。こうした国家は警察国家と呼ばれる。
全体主義国家は犯罪が少ないという説がある。反政府運動を取り締まるために強力な警察や秘密警察が一般市民を監視し、密告制度などがつくられるために、一般の犯罪も少なくなるのだろう。
いくら犯罪が少なくなっても、警察国家や全体主義国家になるのでは意味がない。
ここにひとつのパラドックスがある。国家の力で徹底的に犯罪をなくそうとすると、国家そのものが犯罪的になるというパラドックスである。

善と悪は円環構造?
ここで話を犯罪から悪に戻そう。
法律をゆるくすれば犯罪をへらせるのと同様に、道徳をゆるくすれば悪をへらせるはずだ。
今の道徳は必要以上にきびしくつくられているのかもしれない。たとえば「嘘をついてはいけない」という道徳がある。しかし、人間は人を傷つけないために嘘をつくし、自分を守るためにも嘘をつく(司法の場においては自分を守るために黙秘権が認められているが、日常生活では黙秘する代わりに嘘をつくことになる)。これらの嘘は認められているし、嘘をついたことのない人などいない。つまり「嘘をついてはいけない」という道徳は、明らかにきびしすぎる。このきびしすぎる道徳が「嘘つき」という悪を生み出していると考えられる。したがって、「嘘をついてはいけない」という道徳を「○○のような場合に嘘をついてはいけない」というふうに限定つきの道徳にすれば、世の中から「嘘つき」という悪は確実にへるだろう。
このように道徳をゆるくすれば悪もへるはずであるが、道徳がどのようにしてつくられたかがわからないので、道徳をゆるくする方法がわからない。ここが制定過程の明らかな法律と根本的に違うところである。

反対に道徳をきびしくすればどうなるだろうか。道徳に反したときの罰をきびしくすることで悪をなくそうとするのである。
しかし、このやり方については、国家の力によって徹底的に犯罪をなくそうとすると国家が犯罪的になるというのと同じパラドックスが成立する。
悪を力によって徹底的になくそうということは、政治思想に基づいて行われることが多い。フランス革命における恐怖政治、ロシア革命における粛清、カンボジアのポル・ポト派による大虐殺などは、旧体制や反革命などの悪を徹底的になくそうとするうちに、自分自身が悪になってしまったという例だ。ナチスによるユダヤ人のホロコーストも、ナチスの主観によればユダヤ人という悪をなくそうとしたわけである。「民族浄化」といわれるものはみな同じ論理である。身近な例としては、親がわが子のわがままや行儀の悪さなどを徹底的になくそうとするうちに、親自身が幼児虐待をする親になってしまうということもある。
悪のない世界を実現しようと思って夢中で悪と戦っているうちに、ふと気がつくと、いつしか自分の手は血にまみれ、自分自身が悪になっている――「ミイラ盗りがミイラになる」とはまさにこのことだ。
私はこのパラドックスを「善と悪のパラドックス」と名づけることにした。
私は善と悪のパラドックスについて考えるうちに、善と悪の関係は、一般に考えられているような対立概念ではなく、円環構造で、それもねじれが入って、メビウスの輪のようになっているのではないかと思った。

道徳にひそむ論理的欠陥
実際にメビウスの輪であるかどうかはともかく、善と悪の関係にはパラドキシカルなことがさまざまにある。そうしたことを列挙してみよう。


「悪人」「悪党」「悪漢」「悪女」などの言葉にはどこか魅力的な響きがあるが、「善人」「善良な人」などの言葉にはあまり魅力的な響きがない。

若いころは不良だったと自慢する人はいるが、若いころはよい子だったと自慢する人はいない。

非行、不登校、家庭内暴力などの問題行動を起こす子どもは、小さいころよい子とされていたケースが多く、そのため最近は「よい子」とカギカッコつきで表記されることが多い。

ヤクザ、マフィア、ギャング、殺し屋、詐欺師、悪徳警官などを主人公にした小説や映画が多数存在し、読者や観客は主人公に感情移入している。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」ということわざがある。

親鸞が言ったとされる「善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや」という言葉に深い感銘を受ける人が少なくない。

「必要悪」という言葉がある。


善と悪に関してこのようなパラドキシカルなことが多々あるということは、われわれの善と悪に関する認識になんらかの論理的な欠陥があることを暗示している。複雑な問題や曖昧でとらえどころのない問題は私の手に負えないが、論理的な欠陥なら、それを発見さえすれば解決するわけで、私にもできそうである。

私の発想のもとにあるのは、人間性は変えようがないという認識である。犬の性質が変えられるとは誰も思わないだろう。人間の性質も同じである。となれば、道徳を変えるしかない。
これまでの倫理学の発想はまったく逆である。道徳を絶対化し、人間は「最高善」に到達するべきで、到達できなかったり、悪に走ったりするのは、その人間の人間性や意志に問題があるからだとしてきた。
私は、道徳に人間性を合わせるのではなく、人間性に道徳を合わせるべきだと考えた。この方向性は間違っていないという自信を持っていたので、ねばり強く考え続けることができた。




第1章の2「言葉の定義と善悪の探求」

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「利己的」という言葉のむずかしさ
ここで、議論の混乱を避けるために、いくつかの言葉の意味をはっきりさせておきたい。

「道徳」という言葉のほかに「倫理」という言葉もある。道徳と倫理はどう違うのだろうか。

道徳も倫理も人間の善い生き方を示すものとされ、基本的には同じものである。ただ、道徳は外面的で、倫理は内面的という使い分けがある。それに、「道徳教育」とはいうが「倫理教育」とはいわないこともあって、道徳という言葉には押しつけがましさや偽善的というマイナスのイメージがつきまとう。倫理という言葉にはおおむねプラスのイメージがある。

「国家は兵役の義務という道徳を押しつけてくるが、私は人を殺さないという倫理を守るために兵役を拒否する」

こんな文章を読むと、道徳と倫理が対立概念であると錯覚しかねないが、実際はふたつの道徳(ふたつの倫理)が対立しているだけである。

本書では基本的に道徳という言葉を使い、場合によっては倫理という言葉も使うことにする。

「よい」という言葉を漢字で書くと、「良い」「善い」「好い」「佳い」などとなり、それぞれ意味が違うが、使い分けはめんどうなので、これからはすべて「よい」とひらがなで書くことにする。

「わるい」は、一般的な習慣にならって「悪い」と漢字で書くことにする。

「利己的」と「利他的」という言葉は、道徳について考えるときにきわめて重要であるが、「利己的」という言葉にはとくに注意が必要である。

「利己的行動」という言葉は、字義通りに解釈すれば「自分の利益のための行動」ということで、決して悪い意味ではない。資本主義社会は各人の「利己的行動」を肯定することで成り立っている。

しかし、日常生活で「利己的なふるまい」や「利己的な人間」という言葉が使われるとき、そこには悪い意味がある。つまり他人の利益追求を不当に妨げて自分の利益追求をしているという意味になるのである。したがって、「利己的行動」という言葉も悪い意味にとられる可能性がある。それを避けるにはいちいち「正当な利己的行動」といわなければならない。

英語にはegoisticという言葉のほかにselfishという言葉がある。Egoisticは悪い意味の言葉だが、selfishは中立的な言葉である。日本語では「利己的」というひとつの言葉しかないので混乱してしまうのだ。

日本語でも英語のように「利己主義的」と「利己的」の使い分けがあればいいのだが、そのような意識的な使い分けはされてこなかった。それに、英語のselfishという言葉も完全に中立的な意味ではないようだ。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』の利己的はselfishであるが、ドーキンスはこの言葉のせいで多くの人が「利己的な遺伝子」という概念に拒絶反応を起こしていると嘆いている。

アメリカのエネルギー企業エンロンが不正会計の発覚で2001年に倒産した事件を描いたドキュメンタリー映画「エンロン巨大企業はいかにして崩壊したのか?」において、エンロンの経営責任者の愛読書が『利己的な遺伝子』であると紹介されるのだが、こんな本を愛読する人間だから不正会計をするのだといわんばかりの描き方であった。

本書では、「利己的」という言葉を中立的な意味で使うが、とくに意味を明快にしたいときは「正当な利己的行動」とか「不当に利己的」というような書き方をする。


善と悪は人間の生存につながっている 

道徳の中心概念は「善」と「悪」である。それはこれまでも述べてきたが、改めて示しておこう。

道徳の表現型は実に多様である。思いつくままに並べてみる。


「人は誠実であるべきだ」(基本形)

「人のものを盗むな」(命令)

「国民は、納税の義務を負う」(義務)

「情けは人のためならず」(損得)

「人を裏切る者は自分も裏切られる」(因果)

「ひたむきに働く姿は美しい」(美意識)

「遊んでばかりいたキリギリスは働き者のアリに助けられました」(教訓)


全部を網羅しているわけでもないし、適切に分類できているわけでもない。あくまで例として出しただけである。

これらをひとつひとつ論じようとするとややこしいことになる。だが、これらはすべて次のように言い換えることができる。


「誠実であるのはよい・誠実でないのは悪い」

「人のものを盗まないのはよい・盗むのは悪い」

「納税する国民はよい・納税しない国民は悪い」

 「人に情けをかけるのはよい・情けをかけないのは悪い」

「人を裏切らないのはよい・裏切るのは悪い」

「ひたむきに働くのはよい・ひたむきに働かないのは悪い」

「働き者のアリはよい・遊んでばかりいたキリギリスは悪い」


少々乱暴な言い換えで、倫理学者が見ると怒るかもしれないが、一応成立しているであろう。つまり道徳の表現型はさまざまであるが、最終的にはよいと悪い、善と悪に収斂するということである。逆にいえば、さまざまな道徳はすべて、よいと悪い、善と悪から派生してきたということである。

ところで、「よいと悪い」と「善と悪」は、形容詞と名詞の違いだけでなく、意味も違う。どう違うかを確認しておこう。

ある倫理学の本で、悪を何種類かに分類していて、その中のひとつに地震や台風などの自然災害を挙げていた。つまり地震や台風も悪だというのである(「自然悪」という言葉がある)。私はこれに強烈な違和感を覚え、倫理学という学問に疑問をいだくひとつのきっかけにもなった。

たとえば「よい天気」と「悪い天気」という言葉があるが、これは道徳の善と悪とはまったく関係がない。台風は「悪い天気」の最たるものだが、「悪」に分類するのはやはり違うだろう。

「よい」と「悪い」はきわめて広範囲に使われる言葉である。「よい匂い」と「悪い臭い」、「よい味」と「悪い味」、「よい気分」と「悪い気分」、「よい出来」と「悪い出来」、「よい成績」と「悪い成績」など、挙げていくときりがない。ほとんどの物事に「よい」と「悪い」を冠することができる。

では、「よい」と「悪い」はどう決定されるかというと、「人間の生存に有利なもの」が「よい」で、「人間の生存に不利なもの」が「悪い」である。

「よい匂い」の食べ物はたいてい人間の生存に有利だし、「悪い臭い」の食べ物はたいてい人間の生存に不利である。学校で「よい成績」をとれば、その後の人生が有利に展開する可能性が高く、「悪い成績」をとれば、その後の人生が不利に展開する可能性が高い。「良性腫瘍」と「悪性腫瘍」、腸内細菌の「善玉菌」と「悪玉菌」といった言葉を見ると、生存に有利か不利かで言葉が決められていることがわかる。

「よい」と「悪い」は状況によって変わる。日照り続きで作物が枯れそうになっているときの晴れは「よい天気」ではなく、逆に雨降りが「よい天気」である。痛みで苦しむ患者にとってモルヒネは「よい薬」であるが、痛みのない人間が使うと「悪い薬」になる。すべて人間の生存に有利か不利かが基準になっている。

人間は、周りのすべてのものを「生存に有利なもの」と「生存に不利なもの」と「どちらでもないもの」に分けて認識している(もちろん画然と分かれているわけではなく、グラデーションになっている)。これは人間に限らずすべての動物がそうだろう。

ということは、人類の祖先が言葉をしゃべりだしたごく初期の段階で「よい」と「悪い」という言葉はできたはずだ。食べられる肉を「よい肉」、腐って食べられない肉を「悪い肉」、食べられるキノコを「よいキノコ」、毒のあるキノコを「悪いキノコ」と言語化して、認識を共有することは、人間が生存する上で大いに役立ったに違いない。

そして、「よい」と「悪い」を人間の行為や人格に当てはめて、「よい行為」と「悪い行為」、「よい人」と「悪い人」という表現も行われるようになった。それが道徳である。そして、「よい行為」や「悪い行為」などを抽象名詞にしたものが「善」と「悪」である。

つまり「よい」と「悪い」はすべての物事に対して使われる言葉で、人間の営みに対して使われる場合だけ道徳と呼ばれる。そして、道徳の「よい」と「悪い」を名詞化したものが「善」と「悪」である。

「人類は宇宙に進出するべきである」という考え方がある。これは「道徳」ではなく「価値観」や「思想」といわれる。「道徳」は個人の生き方に限定して使われる言葉である。しかし、「道徳」と「価値観」や「思想」に本質的な違いはなく、「道徳」の発展形が「価値観」や「思想」であると考えてもそれほど違わないだろう。


倫理学とはどういう学問か

道徳について研究する学問が倫理学である。倫理学とはどういう学問だろうか。

私は若いころ、悪とはなにかを知りたくなって、倫理学辞典や思想辞典で「悪」の項目を引いてみた。そうすると、当時の辞典にはたいてい「善の欠如体」と書いてあった(悪を善の欠如体とするのは中世神学に由来する考え方で、最近はあまり採用されていない)。で、「善」の項目を引いてみると、「悪の欠如体」と書いてあった――とすれば笑えるが、さすがにそんなことはなかった。

では、どう書いてあるかというと、わけのわからないことが書かれているのだ。「それはお前に読解力がないからだろう」と言われるかもしれないが、そんなことはない。岩波書店の分厚い「哲学・思想事典」で「善」を引いてみると、三ページ余りにわたって「西洋」「インド・仏教」「中国」「日本」の四項目に分けて説明がされている。ということは定義も定説もないということだ。善の定義がないことは、現代倫理学の基礎を築いたジョージ・E・ムーアも認めている。善の定義がないということは悪の定義もないということである。

倫理学で善と悪の定義がないのは、数学で「1+1」の答えがわからないみたいなものではないだろうか。


倫理学の歴史をきわめて簡略にまとめてみた。

西洋の学問はなんでも古代ギリシャに始まったとされ、倫理学も同じである。当時はもっぱら人間の「善い生き方」を追究する学問であった。プラトンは「善のイデア」ということを言い、アリストテレスは「最高善」と言った。ソクラテスは「徳(アレテー)」を追究したが、徳と善は似たものであろう。中世の倫理学はキリスト教神学の強い影響下にあったが、やはり「最高善」を追究していたし、近代になっても、カントは「最高善」ということを言っている。倫理学は、悪について考察することはほとんどなく、「善の欠如体」ということでお茶をにごしていた(儒教では孟子の性善説と荀子の性悪説が対置されるなど、事情が違う)。

なお、カントは、道徳を仮言命法と定言命法に分けた。仮言命法とは、たとえば「人から信頼されたければ誠実であれ」というもので、定言命法とは、無条件に「誠実であれ」というものである。カントは定言命法こそが道徳であるとした。しかし、定言命法が成立する根拠、つまり人間が道徳的であらねばならない根拠は、示していない。

そして、先ほど述べた通り、ムーアが善の定義が存在しないことを明らかにした。

ということは、「善い生き方」をしようにも、善とはなにかがわからないので、やりようがないことになる。

そこで倫理学は、道徳とはなにか、善とはなにかという根本的なことを追究しなければならなくなった。この分野をメタ倫理学という。

そして、従来の「善い生き方」を追究する倫理学、つまり道徳の中身を研究する倫理学は規範倫理学と名づけられた。

さらに、生命科学の進歩によって生まれた生命倫理学、地球環境問題が生じたことによって生まれた環境倫理学などの新しい分野は応用倫理学と名づけられた。

つまり現代の倫理学には、メタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学の三つの分野があることになった。

しかし、少し考えればわかることだが、メタ倫理学が道徳とはなにか、善とはなにかということを解明しないと、規範倫理学も応用倫理学も成立しないはずである。

もちろん今は、メタ倫理学は道徳とはなにか、善とはなにかということを解明していないので、倫理学全体が成り立たない。無意味な学問とは言わないが、役に立たない学問であることは間違いない。私が「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろうか」という疑問を追究するときにも、倫理学はほとんど役に立たなかった。


善と悪は対立概念、善人と悪人は反対概念 

善と悪の関係はどうなっているのだろうか。これは基本的なことなので、改めて確認しておきたい。

善と悪は対立概念であるとされる。つまり善と悪は、互いに対立するものである。

しかし、これはあくまで抽象概念としての善と悪のことであって、現実における善と悪は違う。たとえば、世の中には純粋な善人も純粋な悪人もいない。一人の人間の中に善と悪の要素が混在している。ひとつの行為も同じである。人を助けることはよい行為とされるが、人の自立を妨げるという悪い面もある。つまり人格や行為は、善か悪かと単純に割り切れない。

これについては対立概念と反対概念の違いで説明するとわかりやすいだろう。対立概念は生と死のように中間がないもの、反対概念は白と黒のように中間があるものである。光と闇、明と暗は似ているが、光と闇は対立概念、明と暗は反対概念とすると、違いがよくわかる。それと同様に、善と悪は対立概念、善人と悪人、善行と悪行は反対概念である。

人間は、極端な善人から極端な悪人まで、グラデーションとなって分布していると考えられる。さらに、同じ人間がときには善行をなすし、ときには悪行をなす。したがって、その人間がどの程度の善人ないし悪人であるかを見きわめるのは容易なことではない。

人間は思考を節約するために、こうした複雑な現実を単純化して、善人または悪人というレッテルを張りがちである。また、あまり思考力を使わずに楽しめるエンターテインメントの映画や小説は、登場人物が最初から善人または悪人とわかるようになっている。こうした映画や小説に慣れると、現実の人間も善人ないし悪人と単純化して見てしまうかもしれない。

「善悪二元論」という言葉もある。これは、ゾロアスター教などの一神教に由来するもので、「この世界を善と悪という対立原理によって説明しようとする説」と説明される。要するに世界全体を単純化して説明するもので、政治の世界を改革派対守旧派の対立ととらえたり、テロ問題を文明社会対「野蛮なテロリスト」の対立ととらえたりするような考え方に対して、「それは善悪二元論だ」というふうに使われる。つねに問題を単純化しているとして批判的な文脈で使われる言葉である。 


二元論がだめなら三元論で

善人と悪人、善行と悪行は複雑でとらえがたく、混乱をきたすことがあるが、抽象概念としての善と悪の関係は対立概念であるということに異論をはさむ人はいないだろう。

しかし、すでに述べたように、善と悪との関係には奇妙なパラドックスが存在しているので、われわれの善と悪のとらえ方になんらかの論理的欠陥があるのではないかと想像される。

私は、善と悪が対立概念であるという考え方を疑ってみようとしたが、これは疑いようがなかった。善と悪は人間が考え出した概念なので、人間が善と悪は対立概念だと規定すればそうなるわけである。

そこで私は、善と悪を二者関係でとらえるのが間違いで、なにかを加えた三者関係でとらえればうまくいくのではないかと考えた。二項対立がだめなら三項対立で、二元論がだめなら三元論で、というわけだ。

私は日常生活において、「この人は善人、あの人は悪人」と判定している。ということは、私は善悪判定人ということになる。善人・悪人・善悪判定人という三者関係でとらえればどうだろうかと考えた。

ただ、「善悪判定人」とは妙な言葉だ。人間は誰でも善悪を判定しているから、そんな言葉は存在したことがない。単に「自分」ということでいいはずだ。

ということで、「善人・悪人・自分」の三者関係でとらえたらどうかと考えた(「善人・悪人・自分」を抽象概念に置き換えると「善・悪・認識主体」ということになる)。

「自分」を視野に入れたことは、われながらよいアイデアと思えた。「自分」というのは盲点に入りやすく、重要なことで見落としていることがあるとすれば、それは「自分」である可能性が高いからである。

私は善人・悪人・自分の三者関係を理論化できないものかと考えた。

私は周りの人を見て、「この人は善人、あの人は悪人」と判定している。しかし、私もほかの人から善人ないし悪人と判定されているわけである。私は自分を悪人とは思っていないが、悪人である可能性は否定できない。もし私が悪人であれば、私の判定する善悪はどうなるのだろう。

これは具体的に考えてみればよくわかる。たとえばナチスにおいては、ユダヤ人を強制収容所送りにするのはよいことで、ユダヤ人をかくまうのは悪いことだ。テロリストにおいては、テロを行うのはよいことで、テロを妨害するのは悪いことだ。ヤクザにおいては、親分に命じられた通りに人を殺すのがよい子分で、殺さないのが悪い子分だ。盗みで生計を立てている家族があったとすると、その家族においては、見張りなどして親の盗みを助けるのはよい子で、「盗みは悪いことだからやめようよ」などと言うのは悪い子だ。

このようなこと踏まえると、次の法則が成立する。 

「悪人においては、善が悪で、悪が善である」 

この法則が成立するのは、この悪人は自分を悪人と思っていないからである。したがって、次のように言ったほうが正確かもしれない。 

「自覚なき悪人においては、善が悪で、悪が善である」 

ただ、悪人というのはほぼ例外なく、自分を悪人とは思っていない。ナチスやテロリストはむしろ自分を正義だと思っているし、ヤクザや泥棒にしても、自分の稼業は悪いことだという認識はあるかもしれないが、自分自身については、生まれた境遇が悪い、社会が悪いと思って正当化している。悪人が全員自覚がないとしたら、「自覚なき悪人」というのは無意味な言葉である。

「自覚のある悪人」が絶対に存在しないとは言い切れないが、表現は単純なほうがいいので、とりあえず「悪人においては、善が悪で、悪が善である」とすることにする。 


自分は善人だと証明できるか

この法則が正しいとすると、私の善悪の判定が正しいと証明されるには、私が善人と証明されなければならない(私が悪人と証明されてもよい。その場合は私の善悪の判定の逆が正しいことになる)。

私は自分のことをおおむね善人と思っているが、そんなことは意味がない。客観的な証明が必要である。

これまで数多くの思想家や哲学者が、自分の判断が正しいという客観的な証明もなしに善悪を論じてきた。まったく愚かなことである。そんなことではまともな倫理学が成立しないのも当然だろう。

私はこの法則を使えば自分の判断が正しいと(あるいは正しくないと)証明できるのではないかと思い、次のようなことを考えた。 


私が善人と認める人が私を善人と認めてくれたら、私は善人と証明されるのではないかと考えてみた。しかし、私もその人も悪人であるという可能性がある。

私の周りの人すべてが私を善人と認めてくれたら、私は善人であると証明されるのではないかと考えてみたが、私の周りの人すべてが悪人である可能性を完全に否定することはできない。

互いに善人と認めあう二人が私を善人と認めてくれたらどうかとも考えたが、三人とも悪人である可能性がある。

私が悪人と認める人が私を悪人と認めてくれたらどうかとか、世界中の人が私を善人と認めてくれたらどうかとか(まったくありえない仮定だが)、いろいろなケースを考えてみたが、どうやっても私が善人ないし悪人であると証明することはできないのだった。

これは考えてみれば当然のことである。善人・悪人・自分(善人ないし悪人)は、互いに互いを規定しているだけなので、どこにも立脚点がない。私は浮遊する三者を頭の中でぐるぐると動かしているだけなのだった。

とはいえ、善と悪を二者関係でとらえるのではなく、善と悪と認識主体という三者関係でとらえるという発想は悪くないと思い、私は正しい答えに近づいている気がした。